宗教のこと

6月30日から約1週間、泊りがけでカトリックの勉強をしに行ってきました。
日本では10日間のヴィパッサナー瞑想をしたことがありましたが、
同じような感じでした。

月曜日の夜から土曜日の夜まで、ひたすらイエス・キリストの歴史や
カトリックの瞑想、自分が犯した罪のこと、カトリックでの決まり…などなど
色んな話を聞き、そして1日3回ほどの瞑想をしました。

1週間の間、他の参加者とは話をしてはならないという決まりがあり、
自分と神イエス・キリストに集中するというものでした。

ヴィパッサナー瞑想に比べれば、少しゆるい感じだったので、
全く苦痛でもなく、おいしいご飯も食べられたし、
わからないことはシスターや神父さんに直接質問もできたしで、
割と快適に過ごすことができました。

更に、大人になってから洗礼を受けカトリックに改信した私ともう一人の女性には、
特別に神父さんからカトリックについての基本的なことも講義してもらいました。

といっても、もちろん全てフランス語だったので、
全部は理解できず、更には苦手な瞑想も毎回テーマに沿ってすることになっており、
理解不足の私は1週間ずっと神父さんに質問しに行く日々でした。

瞑想のテーマというのは、自分が持つ記憶、智慧、意志について。
そして、イエス・キリストの生涯や自分が犯した罪について等々。

正直私は瞑想云々よりも、カトリック教徒として生きていくにあたり、
その決まりと自分がしたい事&自分の考え方との間に沢山の疑問点が浮かび、
毎日それに対して神父さんに質問をしに行っていました。

というのは、私が6年間熱を注ぎやってきたヨガをしない方がいい、
と言われたのがまず一つ。
神父さんに何故ヨガがいけないのか、という質問をしたところ、
「私はヨガの事を良く知らないけれども…」と言った後、
ヨガの哲学に問題があるとのことでした。
「ヨガの事を良く知らない」 と認められた瞬間、もうカトリックに関わる人たち誰にもこの質問をするのはやめようと決めました。
なぜなら、私はずっと「ヨガの事を勉強したわけでもない人たちが、なぜ表面的な事だけでヨガをしてはいけないといえるのだろう」 と疑問に思っていたから。
ヨガとカトリックとの間のことは、自分が納得できればいいや、と思ったのでした。

ヨガスートラの八支則の中にある、ヤマ・ニヤマ。
Ahinsmsaアヒムサ(非暴力)
Satyaサティヤ(正直)
Asteyaアステヤ(不盗)
Brahmacharyaブラフマチャリア(禁欲、梵行)
Aparigrahaアパリグラハ(不貧)

Shauchaシャウチャ(清浄)
Santoshaサントーシャ(知足、満足)
Tapaタパス(苦行)
Swadhyayaスヴァーティヤーヤ(読誦)
Ishwara-pranidhanaイーシュバラ・プラニダーナ(最高神への信仰、自在神祈念)

そしてカトリックにおいての、7つの罪。
Orgueil 傲慢
Avarice 物欲
Luxure色欲
Colére怒り
Gourmandise貪欲(大食)
Envie妬み
Paresse怠惰

これって私にはどちらも生きていく上での心得として、
同じことを言っているようにしか思えません。

実際、ヨーガスートラが成立したのが紀元後(イエス・キリスト誕生後)400~450年だと
いわれているので、もしかしたらイエス・キリストの教えも少し関係しているのかも?
などと思ったり。

とにもかくにも、むか~し昔のことなので、
現在の私たちには真実はわかりません。

もちろん私は神様を信じているし、毎週ミサにも行くし、
神様にお願いしたい、祈りたいと思えばイエス・キリスト、もしくは聖母マリア様に
向かってお祈りをします。

でも、やっぱり共感できないのは、
神父さんたち(実際にジョスも)から他宗教の事を批判交じりで聞く事。
それには正直、もううんざり。

私は純粋に神様を信じ、他宗教の人もどんな人も尊重し合うのが
信仰に沿った考え方なのではないか、と思えて仕方がない。

現に、私の祖父は真言宗だし、そのことについても神父さんに質問をしました。
すると、「彼らのために祈るだけ。神様が何とかしてくださる」という答え。
結局、最終的には「祈る」ということらしい。

私はもちろん祈りもするけれども、全てのものは神様が与えてくれたものなのだから、
神様が決断されること、自分の意思であってもそれは神様と共にあるもの、
だから全てはなるようになるのだし、なりたいようになることも出来るのだと
いうのが私の考え。

まだまだそれぞれの宗教の歴史について、それに絡む国々の歴史についての
知識が浅い私なので、知らない事や理解できていない事も沢山あるのは事実。

根が真面目過ぎる私なので、考え過ぎなのかもしれませんが、
実際ジョスもジョスの家族もそして私もみんなが関係していることだから、
考えずにはいられません。

そんな宗教の事と自分の考えの間で悶々とする日々ですが、
カトリック教徒だった作家の遠藤周作さんの、「侍」という小説を読み、
この人もきっと私と同じように悶々としていたのかなぁと
感じたと同時に、悶々しているのは私だけじゃないのかなと少し気持ちが楽になりました。

まあでも実際、宗教と政治が根っこに絡んでいるから、
世界で争いがおきたり、批判し合ったりという問題が出てくるんですよね。

気晴らしにティティンと外で遊んで来ようと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました